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ⓘ 雅山哲士. 雅山 哲士 (みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、茨城県水戸市出身の元大相撲力士。本名は 竹内 雅人 (たけうち まさと)。現在は年寄・二 ..




雅山哲士
                                     

ⓘ 雅山哲士

雅山 哲士 (みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、茨城県水戸市出身の元大相撲力士。本名は 竹内 雅人 (たけうち まさと)。現在は年寄・二子山として後進の指導にあたっている。

                                     

1.1. 来歴 怪童、焼肉のために相撲

1977年(昭和52年)7月28日に茨城県水戸市で生まれる。実家は茨城県内にバス路線網を持つ旧茨城交通グループのオーナー一族である。小学生時代に「相撲で勝ったら焼肉食べ放題に連れて行ってやる」と言われたことがきっかけで相撲を始め、「水戸尾曽相撲道場」で指導する武双山正士の父親によって強くなった。雅山が幼少期に好きだった力士には琴椿克之を挙げている。水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが、柔道部の顧問に直談判して相撲部を創設してもらったという。明治大学進学後、1997年(平成9年)9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年(平成10年)4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会でそれぞれ優勝して大学二冠を達成すると、大学を3年で中退して武蔵川部屋へ入門、同年7月場所に幕下付出で初土俵を踏む。当時の幕下付出の条件としては1997年(平成9年)の全日本相撲選手権大会で3位入賞の実績を残していたが、それを上回る輝かしい実績を引っ提げての入門だった。また、中学時代からのライバルだった岡部(東洋大学)も中退して角界入りしていたことも動機の一つだった。

武蔵川部屋では、学生相撲出身者に有りがちな立合いの甘さを厳しい指導で真っ先に改善させ、初土俵を踏んだその場所と同年9月場所の2場所連続で全勝優勝を決め、同年11月場所ではあっという間に十両に昇進した。その勢いは止まらずに同場所を12勝3敗で3場所連続優勝、1999年1月場所は西十両筆頭の地位で幕内力士との対戦もある中で14勝1敗の好成績を残し、4場所連続優勝を果たすと同時に新入幕を確定させた。あまりにも早過ぎる昇進のために丁髷が追い付かず、長髪の荒々しい風貌から「 20世紀最後の怪物 」と呼ばれ、右肩の瘤が印象的な力士だった(現在は度重なる手術で小さくなっている)。新入幕の同年3月場所は幕内力士との力の差もあって二桁勝利はならなかったものの、9勝6敗で敢闘賞を受賞、初土俵から所要5場所での三賞受賞は、2014年現在の最速記録である。

                                     

1.2. 来歴 怪童から「お荷物」へ

2000年(平成12年)1月場所は新小結かつ優勝次点となる12勝3敗の好成績を残すと、同年3月場所および5月場所は関脇で11勝4敗、この時点で大関昇進の基準とされる「三役の地位で直近3場所の合計が33勝」を満たしたため、5月場所終了に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード出世であるが、ここまでは相撲そのものに強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、当時の武蔵川部屋には横綱・武蔵丸光洋、大関・武双山正士、出島武春がおり、「この3力士と対戦せずに3場所34勝(での昇進)は物足りない」という意見も存在した。通常ならば大関昇進を諮る理事会において「満場一致での推挙」となるのが普通だが、10名の理事のうち3名が反対を表明する異例の事態となるなど、その行く末は当初から不安視されていた。

その不安は的中してしまい、2000年(平成12年)7月場所では初日の栃東大裕戦で右肩を負傷した影響が最後まで響き6勝9敗と負け越し、同年9月場所はいきなりの角番となってしまう。この場所は勝ち越して角番を脱出するも8勝7敗の成績で、本来の大関の成績とはかけ離れたものとなった。その後も負け越しては角番脱出を繰り返し、3度目の角番として迎えた2001年(平成13年)9月場所では序盤戦から全く波に乗れず、9日目の海鵬涼至戦で左足首関節および左足根骨脱臼の重傷を負って途中休場、同部屋の出島と共に大関陥落となった。大関在位は僅か8場所となり、短命大関としての順位は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降、大受久晃(5場所)・増位山太志郎 、栃ノ心(7場所)に次いでワースト4位の不名誉記録となった。また、大受、栃ノ心と同じく大関在位期間中の二桁勝利が一度もなく、東正大関に番付が載ることもなかった。大関としての成績も57勝58敗5休と負け越すなど大関らしからぬ成績を残すことになった。そのため、相撲雑誌の有識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「 21世紀最初のお荷物 」などと言われる有様だった。

                                     

1.3. 来歴 大関を破って再挑戦

関脇陥落となって迎えた2001年(平成13年)11月場所は公傷による全休が適用され、2002年(平成14年)1月場所は関脇の地位を維持、10勝以上を挙げれば大関に特例で復帰できたものの、怪我の回復が遅れたことで全休となった。公傷適用は怪我をした場所の次の場所に限定されているため、この場所の全休は全敗として換算され、同年3月場所は東前頭8枚目まで下がった。この場所では元大関の実力を見せて9勝6敗と5場所ぶりの勝ち越しを決めたがその後は平幕上位から中位に留まり二桁勝利を挙げて三役へ昇進しても負け越して即陥落するなど、かつての勢いは失われていた。さらに、2003年(平成15年)1月場所の横綱・貴乃花光司戦でのいわゆる「疑惑の判定」に巻き込まれ、その取組で右足を負傷するなど、不運を被った(後述)。

右肩の怪我で大関を陥落したが怪我の回復が遅れ庇っている内に今度は左肩も痛めたため、2004年7月場所前に突き押し相撲だけでなく四つ相撲も身に着けた事が功を奏するようになる。その場所では前場所までの不調を晴らすかのように初日から9連勝し12勝3敗と優勝次点の好成績を収めた。翌9月場所で関脇に復帰すると9勝6敗と大関昇進を決めた2000年(平成12年)3月場所以来4年ぶりの三役における勝ち越しを記録した。その後も三役に定着し、周囲からは大関復帰を期待する声が聞かれるようになった。大関再挑戦となるこの時まで時間を要したのは、途中で父親の病気治療のための長期入院2004年9月場所後に死去など心労に見舞われた事で、持ち直すのに時間がかかったという2005年3月場所は3大関に勝ったが5勝10敗と5場所ぶりに負け越し4場所連続で在位した関脇から陥落した。前頭4枚目で迎えた2005年(平成17年)11月場所は当時の3大関(魁皇博之、千代大海龍二、栃東大裕)全員に黒星を付けて10勝5敗と二桁勝利を挙げ、大関陥落後では初となる三賞(敢闘賞)を受賞した元大関として貴ノ浪以来3年ぶり史上5人目の三賞受賞。前頭筆頭で迎えた2006年(平成18年)1月場所においても前述の3大関(この場所では新大関に琴欧洲勝紀がいたが敗れた)を破って8勝7敗と勝ち越すなど、元大関としての意地を見せた。小結に復帰した同年3月場所においても3大関(琴欧洲、千代大海、栃東)を破って10勝を挙げ、同年5月場所では新大関・白鵬翔を含む4大関全員を倒し、千秋楽まで白鵬と優勝争いを演じた。優勝決定戦では突っ張りが白鵬の汗によって滑ったことで敗れ、初の幕内最高優勝こそ逃したものの前場所を上回る14勝1敗の好成績を挙げ、同年7月場所に大関復帰を賭けることとなった。



                                     

1.4. 来歴 昇進基準と番付

大関復帰を賭けた2006年(平成18年)7月場所は序盤こそ緊張感から苦戦したが、終盤の5連勝によって10勝5敗で終えた。二桁勝利で終えたことにより、大関昇進時と同様に「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」となり、昇進を諮る審判部の判断が注目されたが、不運にも再昇進は見送られた。その理由として、直前場所の成績が10勝5敗での昇進は1960年代以来ほとんど例が無かったことや、10日目を終えた段階で5勝5敗と優勝争いに全く加われなかったこと、仮に雅山が再昇進した場合に前例の無い「1場所6大関」という極めてバランスの悪い番付構成になることも不利に働いてしまった。さらに、綱取りが懸かっていた白鵬が、雅山の大関再昇進と同時(ところてん式)に昇進していれば5大関に収まったが、白鵬の横綱昇進まで見送られる結果となった。

雅山にとって三度再挑戦となった同年9月場所では、9日目までに5敗を喫して9勝止まりとなり、大関復帰は果たせなかった。しかし取組の内容としては、9日目の対白鵬翔戦で善戦(本人曰く「今場所最高の相撲」)し、終盤にかけて気持ちを切らさなかったことを高く評価され、北の湖理事長も「大勝ちすれば(大関復帰の)話題性の出てくる可能性はある。よくここまで持ってきた」とコメントするなど、大関復帰の可能性はまだ残っていると見られた。しかし同年11月場所は千秋楽にようやく勝ち越しを決めることとなり、2007年(平成19年)1月場所は5勝10敗と大敗し、5場所連続で務めた関脇から陥落すると同時に大関復帰の可能性も完全に消えた。

                                     

1.5. 来歴 平幕での健闘~現役引退

大関復帰が夢と消えた後も、雅山は元大関としての意地を見せる場面が見られた。2007年(平成19年)3月場所2日目には横綱・朝青龍明徳と対戦し、足をぐらつかせるほどの強烈な突っ張りの末に寄り倒しで勝利し、自身初の金星を獲得した。雅山は初土俵から所要10場所で三役に昇進したため、雅山に限らずスピード昇進を果たした力士の金星の数は得てして少ない。その後も7日目まで4勝3敗の成績を挙げたが、7日目の対旭天鵬勝戦で右の太股を痛めて途中休場となった。2007年6月頃に母が死去した事で深く悲しみ、本場所2007年7月場所で花道に控える付け人に母の遺影を掲げるよう頼んだ時期もあったという。関脇陥落後も平幕上位の地位を保ち続け、横綱・大関と対戦する場面も見られたが次第に上位では勝ち越せなくなり、2009年(平成21年)5月場所では初めて平幕二桁台となる前頭11枚目まで陥落した。それでも2008年9月場所前に結婚した事で発奮し朝青龍から2個目の金星を獲得し、11月場所では初日から7連勝し一時優勝争いに加わる、さらに1年後の2009年11月場所では前頭9枚目で12勝3敗の好成績を挙げる活躍を見せ、3年半ぶりの三賞(敢闘賞)を受賞した。

2010年(平成22年)に発生した大相撲野球賭博問題では賭博に関与したとされ、特別調査委員会から同年7月場所の出場停止(謹慎)を勧告され、相撲協会も受け入れた。それによって同年7月場所は全休とされ、同年9月場所は1977年(昭和52年)の大受久晃以来史上2人目となる「元大関の十両陥落」となった。しかし元大関では十両での力の差は歴然で、12勝3敗の好成績を挙げて幕内復帰を果たしたが、野球賭博問題に関しては2011年(平成23年)3月3日に「賭博開帳図利容疑」で書類送検されるなど、雅山自身も含めて角界全体に暗い影を落とした。同年11月場所では11勝、2012年(平成24年)1月場所では久しぶりの三役(小結)に復帰したが、元大関が十両に陥落した後に三役へ復帰したのは雅山が史上初である。この頃に入ると加齢による衰えと足裏にまで巻かれたテーピングや足袋のためか膝から滑り落ちる負け方が目立ち始め、この場所は3勝12敗と大敗。その後も横綱・大関との対戦が基本的に組まれない平幕下位でも勝ち越しと負け越しを繰り返し、負け越しも二桁敗戦などが目立ち、番付次第では十両再陥落が起こりうる状況が続く。

2012年(平成24年)12月場所は負け越せば即十両陥落となる幕尻の東前頭16枚目、さらに心臓に痛みが走る症状が現れただけでなく脳梗塞まで疑われる状態で出場するも、2013年(平成25年)1月場所は初日から8連敗を喫する。9日目の対玉鷲一朗戦で初勝利を挙げたが、その際に館内から温かい拍手を受けて花道で涙を流した。負け越したことで十両再陥落が現実味を帯びたが「まだ気持ちは切れていない」と述べ、十両陥落後も現役を続ける決意を表した。同年3月場所は十両9枚目となり、自身2度目の十両陥落と同時に自身の持っていた元大関の最低地位を更新してしまった。そして10日目に負け越しが決定すると、13日目でも敗れたことで幕下陥落が決定的となり、千秋楽(3月24日)の対鬼嵐力戦に勝利したのを最後に現役引退を表明、年寄・二子山を襲名して後進の指導に当たることを発表した。大関陥落後、関脇以下の地位を68場所に渡って務めたが、これは2009年(平成21年)7月場所を最後に引退した出島武春の48場所を大きく超える史上最長記録となった。

                                     

1.6. 来歴 引退後

2013年(平成25年)9月30日、現役引退と年寄・二子山襲名を報告するために茨城県庁を訪れた際に、茨城県知事・橋本昌から長年の相撲界への功労を讃えられて「茨城県特別功労賞」を授与された。また、引退相撲は2014年2月1日に両国国技館で行われ、8000人の観衆が見守る中で引退相撲を行ったが、取組の相手に自身の長男を選び、押し出しで敗れた。また断髪式では先代の武蔵川夫妻ら270人が鋏を入れ、藤島が大銀杏を切り落とした。二子山は「はさみを入れてもらっているとき、思い出が駆け巡った。これからは強い日本人力士を育てたい」とさっぱりした頭をなでながら抱負を語った。また、同年1月には自伝「雅ノート」を実業之日本社から出版した。

その後、藤島部屋付き年寄として後進の指導に当たっているが、将来的には二子山部屋を独立する意向も示していた。二子山部屋といえば横綱・大関を輩出し、かつての大相撲人気を支えた名門(部屋自体は貴乃花部屋に改称して2004年に消滅)だが、これについては「偉大な名前を引き継ぐことが出来た。自分も(強い)イメージを残せる部屋を目指したい」と語っていた。2018年(平成30年)3月29日の理事会で、同年4月1日付で、6人の内弟子を連れて藤島部屋から二子山部屋を分家独立することが承認された。

協会の業務では、2015年(平成27年)1月29日付の職務分掌で記者クラブの担当として広報部に配属され、2016年3月には日本相撲協会の評議員に就任した。評議員は2018年3月26日まで務め、同月28日の職務分掌では審判部に配属された。

2020年11月9日、二子山部屋後援会が群馬県渋川市議会の田辺寛治議長宛てに抗議文を提出した。9月場所中の9月14日に群馬県渋川市議会議員の中沢広行が事前の約束もなく部屋を訪れたという。二子山が不在であったため応対した弟子たちに「昨年の9月21日に渋川市の高木勉市長が二子山部屋親方に会っているかを教えろ」と中沢は詰問し、さらには10月下旬に群馬県の弁護士から同様の内容を尋ねる文書が届いたため、二子山が後援会長に苦情を伝えたという。後援会は「コロナ禍の場所中にアポなしで部屋を訪れるのは無神経」と憤慨していたが、中沢は「訪問は市議としての調査権を行使しただけ。 コロナ禍であることは特に気に留めていなかった が、訪問した際も女将、力士に誠実に対応していただいており、抗議は寝耳に水だ」と話している。

2021年4月6日、埼玉県所沢市内から都内葛飾区にある旧東関部屋施設に部屋を移転することが報じられた。国技館まで電車を乗り継いで1時間以上かかっていたため、力士の負担を減らし、稽古環境を整えるためのものであるという。2019年末に死去した13代東関潮丸とは仲が良かったため、「その遺志を引き継ぎたい。今はコロナ禍で、すぐには難しいかもしれませんが、地元の方々と触れ合って地域の活性化に貢献したい」と話している。13代遺族・葛飾区と調整中で、部屋建物は二子山の所有、土地は葛飾区から継続して借りることとなる。



                                     

2. 人物

得意なのは突き押し相撲だが四つに組んでも十分に相撲が取れた。相手の顔に向けて行われる小刻みな突きと、腕の動きを効果的に使う取り口である。また、重い突きを繰り出してから土俵際を回り込んでの引き、叩きの上手さもあった。

腰が重い力士としては珍しく足腰が強く、対戦相手がいなしたり、出し投げを打とうとしても足腰のバランス感覚で相手をかわす技術は高い評価を得ていたが、体重の影響による足の負傷も多かった。

通常は明るい性格で、愉快なコメントを数多く残している。豊ノ島大樹、普天王水とも仲がいい。

                                     

3.1. エピソード 現役時代

  • 2009年3月場所12日目の対千代大海龍二戦で、引き落としを決めて勝った際に物言いが付き、結果として「髷を掴んだが故意ではない」という見解が出された上で行事軍配通りの判定に落ち着いた。
  • 幕内在位82場所の記録を持っているが、幕下付出力士としては史上1位の記録である。学生相撲出身力士で幕内在位場所数記録の歴代10位以内に名前を記録している力士も雅山だけである。学生相撲出身者でありながら通算88場所中82場所を幕内(新入幕から引退に至るまで十両陥落は2回のみ)で過ごしたことは、出世が早く長持ちで衰えが遅く、引退間際まで幕内に定着していたことを意味する。
  • 2000年5月場所、魁皇戦で待ったかと思いこみ何も出来ず負けた事がある。
  • 不戦勝が多い方で通算9回と史上6位タイの記録である。
  • 同学年の玉乃島新とは幼少期からのライバルで、大学を中退して角界入りしたのも玉乃島の影響を理由の一つとして挙げている。また若兎馬裕三からはライバル視され、千代天山大八郎とライバル関係だった時期もあった。
  • 大関陥落以降は「現役中は元大関と言われるのが嫌でした。大関に戻るつもりでいましたから」という理由で、大関戦で勝利してもインタビュールームには行かなかった。しかし、朝青龍から初金星を得た時は「強い横綱に勝って嬉しかったので行きました」という。ちなみに朝青龍との対戦成績は5勝34敗で、5勝のうち2勝は金星である。
  • 2006年5月場所から2007年1月場所まで、5場所連続で琴光喜啓司と関脇を務めた。5場所連続で同じ力士が関脇を務めたのは131年振りであった。
  • 雅山の引退により、旧基準の幕下付出(幕下60枚目格付出)で初土俵を踏んだ力士は全員が引退となった。
  • 現役生活で思い出に残る相撲は、「3場所連続休場を喫して大関から陥落した後に迎えた2002年3月場所初日の玉春日戦」「幕内最終場所となる2013年1月場所9日目でその場所の初白星を上げた玉鷲戦」「現役最後の1番となった2013年3月場所千秋楽の鬼嵐戦」である。
  • 同部屋の元横綱・武蔵丸光洋を慕っており、武蔵丸の引退時は武双山、武雄山喬義と共に大泣きしたという。引退相撲での横綱土俵入りでは露払いも務めた。
  • 大関再昇進をかけていた頃は当時の大関陣に対して相性がよく、大関キラーと呼ばれたこともあった。
  • 新入幕の1999年3月場所を前頭7枚目で迎え、その後長きにわたって前頭二桁枚数の経験がなかった。雅山が初めて二桁枚数となったのは2009年5月場所の前頭11枚目で、幕内在位62場所目のことだった。
  • 勝ち名乗りを受ける際には、必ず蹲踞した後に右手で右膝を叩いていた。
  • 幕内最高優勝を未経験のまま大関経験者が引退する例は、大関から横綱に昇進するも廃業した双羽黒光司の例から数えても25年3ヶ月ぶりの珍事である。雅山以前に、最高位が大関の力士で優勝未経験のまま引退したのは32年前の増位山太志郎(1981年3月場所を最後に引退)まで遡る。
  • 「雅山」の四股名は通っていた相撲道場で指導を受けた武双山正士の父親が考えたものだが、雅山本人は「雅風」と考えていた。現在でも雅風に未練が残っているという。
  • 2008年9月に7歳年下の女性と結婚、2009年6月に結婚披露宴を行った。妻との間に息子が2人いたが、次男は2013年6月に1歳11か月で他界した。次男の死後の同年9月からは年寄名の下の名を次男の名である「雅高」に変更している。
                                     

3.2. エピソード 2003年1月場所

この場所で西前頭筆頭だった雅山は、2日目に休場明けの横綱・貴乃花光司と対戦した。取組では雅山の二丁投げが決まり、貴乃花は裏返しになって左肩から落ちた。多くの観客が雅山の勝利であると確信し、立行司・木村庄之助の軍配も雅山を指した。しかし勝負審判から物言いがつき、「両者同体」という判定により取り直しとなった末、貴乃花の上手投げが決まって雅山は敗れた。

しかしこの取組直後から、雅山が勝っていたとする抗議の電話が日本相撲協会とNHKに100件以上も殺到した。また、雅山は最初の二丁投げを放った際、右足関節外果を剥離骨折しており、それをおして出場した翌日の大関・朝青龍明徳戦で敗れた際に悪化させ、4日目から休場した。一方の貴乃花も、雅山の二丁投げを受けた際に左肩鎖じん帯を損傷させて翌日から途中休場、完治しない中で5日目から再出場したが、結局8日目の取組後に現役引退を表明した。雅山本人は「横綱(貴乃花)と二番とれたのは、少しは力がついてきた証拠かなと自信につながりましたね」と前向きに受け止めていた様子を引退後に語った。

ちなみに雅山は、貴乃花と幕内で11回対戦し全敗している。最高位が大関でありながら10回以上対戦して全敗した記録は雅山以外では汐ノ海運右エ門が羽黒山政司に対して13戦全敗した例があるだけである。

                                     

3.3. エピソード 引退後

  • 二宮清純との対談でモンゴル人力士の弱点を分析し、そこでは「実はモンゴルの力士は縦の引きに弱い傾向があります。横にいなしても粘っこくついてくるのに、縦に引くと意外とあっさり落ちることが少なくない。僕も白鵬に勝った時はバッと突いて、サッと引いて崩すパターンがほとんどでした」と語っていた。2017年7月場所前のコラムでも、モンゴル人力士の引きに対する耐性の傾向について同様のことを話している。同じ頃から問題となった白鵬のかち上げと張り手については、サポーターを巻いた肘でのかち上げは悪く取られても仕方がないとしつつも、基本的に「自分(白鵬)の体力が落ちてきたことを考えてやっていたわけですし、私は何とも思っていません」と容認している。
  • 2017年11月場所前の自身のコラムで、技能賞受賞に関しては小柄な力士や派手な技を繰り出す力士が有利であると分析しており、押しや叩きをもっと評価しても良いのではと私見を述べている。同じコラムで、二子山は力士の怪我の増加は稽古不足が原因であると断じており、さらに「普通の社会人で考えたら、力士は稽古が仕事なんです。だから稽古をしなかったら、就職した会社で何もしないでボーッとしているのと一緒です。巡業中に稽古をしなかったら、ただの旅行、あるいはお客さんへの顔合わせになってしまいます。相撲は修行でもありますが、仕事でもあるんです」と稽古の重要性を説いた。寝不足は移動のバスで2席使えるのだからそれを使って睡眠をとれば良いと厳しく言い、稽古不足を棚に上げて賃上げを要求するのは矛盾していると、発言のレベルが落ちていると切り捨てている。
  • 「相撲界のグルメ王」と呼ばれるほどグルメには造詣が深く、特に焼肉に関しては全国130軒もの焼肉屋に足を運んでは常に美味しいメニューをチェックしている。2018年の時点でも豪栄道豪太郎とは焼肉仲間で、ともに焼肉屋巡りを楽しんでいる雅山は、1日3~4軒もの店をはしごしたこともあったという。
  • 2019年3月場所前の自身のコラムで、日本出身力士の多くは巡業で相撲を取っていても相手の体勢になると俵までまだ十分がある距離で力を抜くと現状を指摘していた。二子山は「これでは土俵が丸いという感覚が身に付かない」とも嘆いており、むしろ外国出身力士の方が土俵を上手く使って土俵際で残していると評している。
  • 現役時代、叩きを武器にしてきたことから投げで勝つと賞賛されることが多いことと、叩きで勝つと褒められることが殆ど無いことの差の意味が分からないという。雅山は2017年7月場所前のコラムで「はたきだって、突いている間に相手の足がだんだんそろっていくのを、一瞬で見極めてはたくわけですから、技術的な面もあるんです」と持論を述べている。
  • 2019年5月場所3日目(5月14日)、貴景勝対北勝富士戦で勝負審判として控えていた際に、貴景勝が土俵下に落ちた際に直撃し左足を負傷。翌15日の4日目から休場した。診断の結果は左下腿挫傷で、4日目は玉ノ井が、5日目以降は富士ヶ根が代役を務めることとなった。


                                     

3.4. エピソード その他

  • 生まれたばかりのとき体重が5キロもあったという 。
  • 2015年5月場所より自身の公式ツイッターを開設した。
  • 酒を嗜むようになったのは30歳頃からで、同郷の大久保博元と親交がある。雅山はある時本場所中で負けた後に食事の席で「1日1回、リセットする時間をつくれ」と大久保に助言され、以来飲酒の習慣を取り入れた。
  • 明治大学を中退したのは、約1年間にわたって下級生部員2人に殴る蹴るの暴行を加えていたことが発覚したためである。その結果、当時の相撲部監督から自主退学するよう求められ、監督自身も引責辞任することとなった。
  • 2006年7月から、好評だった部屋の公式ブログから独立する形で自身のブログを立ち上げた。しかし過去に自身のブログでファンと口論になったことがある。ブログそのものも2008年11月を最後に休止している。
                                     

4. 主な成績

  • 三役在位:20場所 (関脇14場所、小結6場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:7場所(2005年11月場所〜2006年11月場所)
  • 大関在位:8場所
  • 幕内成績:599勝563敗68休 勝率.515
  • 現役在位:88場所
  • 大関成績:57勝58敗5休 勝率.496
  • 幕内在位:82場所歴代9位
  • 通算成績:654勝582敗68休 勝率.529
                                     

4.1. 主な成績 三賞・金星

  • 技能賞:1回(2006年5月場所)
  • 敢闘賞:5回(1999年3月場所、2000年3月場所、2000年5月場所、2005年11月場所、2009年11月場所)
  • 殊勲賞:2回(2000年1月場所、2006年5月場所)
  • 三賞:8回
  • 朝青龍2個(2007年3月場所、2008年9月場所)
  • 金星:2個
                                     

4.2. 主な成績 各段優勝

  • 十両優勝:2回(1998年11月場所、1999年1月場所)
  • 幕下優勝:2回(1998年7月場所、1998年9月場所)
                                     

4.3. 主な成績 幕内対戦成績

  • 他に優勝決定戦で、白鵬に1敗がある。

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。 太文字 は2020年11月場所現在、現役力士)

                                     

5.1. 改名歴 四股名

  • 雅山 哲士(みやびやま てつし)平成10年(1998年)11月場所 - 平成25年(2013年)3月場所
  • 竹内 雅人(たけうち まさと)平成10年(1998年)7月場所 - 平成10年(1998年)9月場所
                                     

5.2. 改名歴 年寄名

  • 二子山 雅人(ふたごやま まさと)平成25年(2013年)3月24日 - 平成25年(2013年)9月1日
  • 二子山 雅高( - まさたか)平成25年(2013年)9月2日 -
                                     

6. 外部リンク

  • 雅山 哲士 - 日本相撲協会
  • 二子山雅高(元大関雅山) futagoyama_sumo - Twitter